富岡八幡宮(深川八幡)





例年、住まい近くの富岡八幡宮(横浜金澤)への初詣が我が家の年始めであり、東京深川の 実家への年始も恒例になっています。今年(99年)は、東京深川の富岡八幡宮と横浜金澤の 富岡八幡宮へ参拝しました。

江戸の三大祭りといえば神田、山王、深川。富岡八幡宮の大祭の起源は1642年(寛永19年)8月15日、 幕府の命により将軍家光の長男(後の家綱)の世嗣祝賀を行ったのが最初といわれ八幡宮創立(1627年 ・寛永4年)から15年後のこと。
当時、小名木川以南はまだ海で島と浮洲が点在し、そのなかに永代島があった。 菅原道真公の子孫といわれる長盛法印が、夢のお告げにより永代島周辺の砂洲一帯を埋め立て、 その面積は現在の八幡宮境内、深川公園、富岡町、門前仲町に相当する広大な社地で、永代島 八幡宮といわれていました。
埋め立て工事は、何度となく高波に襲われ工事は難行しました。
その時、横浜金澤の浪除八幡( 富岡八幡宮)の分霊をお祭りして埋め立てに成功したと言われています。
富岡八幡宮(深川八幡)は、地下鉄東西線「門前仲町」で下車、永代通りバス停富岡一丁目で江東区富岡一丁目に所在し。富岡八幡宮(浪除八幡)は、京急線「富岡」で下車、横浜市金沢区富岡四丁目。どちらも富岡なのです。

1807年(文化4年)、祭り見物の群集で永代橋が崩れ落ちた事件はあまりにも有名で、歌舞伎や芝居 に織り込まれ、八幡祭りの人気を語る話として今に伝えられている。 明治になるまでは、山車が中心で氏子各家がこぞって幟を立てたことから一名“幟祭り”ともいわれ、  1904年(明治37年)に電車が走り始めるようになると、電線がじゃまになり山車がだせなくなったという。 神輿が洲崎遊廓へ入るようになったのもこの頃である。  大正の震災や戦災により幾度となく中止されながらも伝統ある八幡祭りの神輿連合渡御は、深川っ子たち の心意気に支えられ受け継がれてきました。  現在のように、本祭りが3年に1度に定着したのは1959年(昭和34 年)からです。  かつてはタブーとされていた女性の担ぎ手も多くなり「神輿は2階から見下ろしちゃいけない」の習わしも なくなり、「ワッショイ」の掛け声と晒しに町内袢天、半股引きのいでたちで神輿を担ぐことに統一され ました。



別名「水かけ祭り」とも言われ、店先々に用意されたポリ容器等の水を御輿めがけてかけ、はたまた放水車 まで担ぎ出しての水の掛け合いは圧巻です。 真夏の炎天下に、神輿を担いで8キロという長距離を練り歩くため、日射病を防ぐ意味で水をかけ、辰巳芸者 が担ぎ手の足元に、水をかけて無事息災を願ったのが始まりだとか。本来は足元だったのが、だんだん威勢 がついて神輿にまでかけるようになったという。一説には神輿を海に担ぎ入れ、「洗い清める」のと同様にお 清め水だとも、あるいは神様の通る道にホコリをたてないための打ち水だともいわれる。

富岡八幡宮例大祭(1999.08.15)☆←クリック





江戸時代に勧進相撲が富岡八幡境内で行われたことを起に、相撲にゆかりの深いこの八幡宮に、明治三十三 年、第十二代横綱陣幕九五郎が発起人となり、建立されたのです。
日本一とも言われる五千五百貫 (約20 トン)もある巨大な「横綱力士碑」、まさに圧巻です。 昨年(98年)9月に横綱碑に向かって右側の新横綱碑の表側最後に第六十六代横綱「若乃花勝」が刻名さ れ六十四代「曙太郎」六十五代「貴乃花光司」の三力士が仲良く並んでいます。
横綱力士碑の背面最後は、四十五代「若乃花勝治」の名が刻まれています。
富岡八幡宮は江戸勧進相撲発祥の地として知られておりますが、新横綱の土俵入りは実に209 年振りのことで、今後も新横綱の刻名式の際には土俵入りを恒例化する事になりました。

「大関力士碑」は、参道の右手側にあります。










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